佐藤ヒロユキ。仙台在住のMOD音楽職人(サウンドエンジニア&プロデュース/レーベルなどやってます)アナログレコード好き1963年生まれ。GROOVE COUNCIL代表。http://groovecouncil.jimdo.com/


by higemodern
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小説・少年の旅立ち

高3の夏休み、横浜の親戚のところへ遊びに行った。
まぁ、それは大義名分で、親に内緒で東京の専門学校を下見するのが目的だったのだが。

音響芸術科…
当時関東以北には東京(それも2校)にしか、その学科はなかった。
レコーディングエンジニアかコンサートPAエンジニアを夢見ていたのである。

いちおう進学校に通っていて地元の教育大学への推薦もほぼ決まっていたが、子供の頃から「学校の先生になれ!」と親に言われてきた反動もあったのだろう。
敷かれたレールの上を歩いていくことに疑問を感じていたのも事実だ。

何より若い頃は無謀だし(それが特権でもあるのだが)現実など考えることもなく、ただひたすら夢を追いかけたかった。
いや、正確には他のことは目に入らなかったと言うべきか。

反面、田舎モンの不安も大きく、心のどこかで下見をして怖じ気づけばあきらめもつくとも思っていた。
東京って、なんか怖かったし(笑)
そんな複雑な心境で、西新宿にある専門学校の受付に資料をもらいに行った。

そしたら「いま授業やってないので実技室でも見学して行く?」と言われたので、せっかくだからとレコーディングRoomとPA実習ホールを見せてもらった。

当時の自分が見たこともない高級そうな機材が揃っていて、見ただけで圧倒された。
同時に「こんな機材を操って音を創造してみたい!」と体中に電流が走った。

帰り際には資料の他に入学願書ももらって学校を後にした。
そしてそのまま新宿のデカい本屋へ行き「PAエンジニアAtoZ」とか「ミキサーはアーティストだ!」とか「音響ガイド」とかの専門書を買い込んだ。

1週間ほど親戚の家に泊まりあちこち遊んで仙台へ帰る予定だったが、居ても立ってもいられなくて3日で仙台へ戻った。
親を説得するためだ。

しかし現実はそう甘くはない。
いくら説明しても、サウンドエンジニアなんて仕事は想像以上にマイナーだったし、そんなので食べていけるわけない!と、親は頑として首を縦には振らなかった。

高校の担任は「大学出てからそっちの勉強しても遅くはないぞ」と言った。
「どうせ勉強するなら1日でも早い方がいい!4年間も無駄にしたくない!」とこっちも譲らない。

秋になった。
両親とは顔も合わせず、口も利かない険悪な日々が続く。
高校ではほとんどが大学進学を目指す同級生と話題が合わなくなっていく。

そんな状況が決して楽しいはずはなく、しかし何か目的を達成するためには犠牲も必要なのだ、と学んだ時期でもある。

冬が近づいたころ強硬手段に出た。
誰にも言わず、例の専門学校へ願書を提出。
保証人の印鑑も隠れて勝手に押した。

入学試験は、また親戚の家に遊びに行くと嘘をついて受けに行った。
そして合格通知がきた。

こうなれば親も了承するだろうと高をくくっていたが、逆に激昂された。
「大学以外なら金は一銭も出さない!」
「自分で何とかするからいい」

高校の担任には「僕の推薦枠は他の優秀な奴に使って欲しい」と伝えた。

そこから入学までの間は奨学金の試験を受けたり、住み込みアルバイトの手配をしたり、友人達と最後の仙台生活(当時はもう戻る気はさらさらなかった)を謳歌したり。
もちろん音響の本を読みあさり、コンサートへ行きPA機材を研究することも忘れなかった。

そして親との交渉は決裂したまま、高校卒業の4日後に家出同然で東京へ旅立った。
辛いと予想していた初めて出来た恋人との別れも、悲しくはあったけれど、これからの希望のほうが大きかった。
申し訳なかったけど。

それでも、まだ18歳である。
電車の中では不安と、これで良かったのか?という自問自答で涙が出た。

こうして学費も生活費もすべて自分で稼ぎながらの、意地でも引き返すことの出来ない修行のような東京ライフがスタートしたのだった。

19歳になるちょうど1ヶ月前。
ユキヤナギの花が、まだ少し冷たさの残る風に吹かれていた。


love & youth.
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by higehiro415 | 2010-07-02 19:47 | 物語