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佐藤ヒロユキ。仙台在住のMOD音楽職人(サウンドエンジニア&プロデュース/レーベルなどやってます)アナログレコード好き1963年生まれ。GROOVE COUNCIL代表。http://groovecouncil.jimdo.com/


by higemodern
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小説・アナログレコード

◆帰国
久しぶりの仙台は以前よりどこかキラキラしているように見えた。いや、わずかな間にそう街が変わることはないから、実際に何かが変わったわけではないのだろう。気持ちの変化というやつは人の視覚をも変えるのだと、音羽金也は感心する。

ロンドンから戻りまず金也が最初に顔を出したのは、それまで勤めていた小さな音楽イベント制作会社だ。リフレッシュしてまた戻ってこいと社長に言われていたが、はっきりと「他のことをやろうと決めました。すみません。」と伝えた。他のことなど本当は決まっていなかったが、これまでと同じ仕事はしないと決心していたので、まぁ大きな間違いではない。

金也が東北ツアーなど担当していたバンドは、彼が辞めると聞きつけて「いいバンドばかりなので後は僕が頑張ります。譲って下さい!」と頭を下げにきた別会社イベンターの若手Sに譲ることにした。もちろんバンド側の事務所には事情を話し、了承してくれたバンドだけだが。
贅肉少年隊、Theパーズ、Mr.子供、ペロウズ、J(Z)W、The収集家達、ブ・ニャンボス、怪しげ人形などなど。後にSは東北が誇るビッグ野外フェスを成功させていくことになるので、金也の判断は間違っていなかったのだろう。

これまでの仕事は演奏者とオーディエンスを仲介する役割ではあったが、やはり演奏者側に視点が寄っていた気がした。向こうで、つまりロンドンで音楽への情熱を取り戻した金也がこれから進もうと考えていたのは、もっとオーディエンス側に近いストリート(街)に密接に関わる場所だった。
そういう意味では復活という表現よりは、再出発といったほうがしっくりくる。もちろんこれまで習得した技術やコネは全部捨てる覚悟だった。むしろゼロから新しい道を切り開いていくほうが性に合っているし、それが彼の生き方でもあった。

だからといって5年間付き合った彼女との仲までゼロにする必要があったのかは疑問だが、こうと決めたら相当に頑固な金也だった。もしかすると30歳になり新しいキャリアをスタートさせることに精一杯だったからかもしれないし、不安定な人生に他人を付き合わせるのは悪いと思ったからかもしれない。でも本当は自分以外のものを背負う余裕も器の大きさも、この時の金也には無かっただけの話なのかもしれない。


◆直感
電話のベルが鳴る。薄いグリーン色の電話機に接続されているカセット留守電レコーダーが、カチャンと作動する。今後進むべき道の具体策を考えていた金也は電話に出るつもりなどなかったが、留守電レコーダーのスピーカーから聞こえてきた馴染みのある声に反応し、慌てて受話器に手を伸ばす。前の会社で発行していた東北の音楽雑誌Hard Onの編集長Mさんからだ。

「もしも〜し、金也です。すんません、電話に出るの遅くって」
「あ〜なんだ、いたんだ。良かった」
「どうしたんですか?」
「柳町通りにある楽園レコードって知ってるよね?あそこのオーナーっておれの同級生なんだけど、中古レコードを海外で直接買い付けしてみたいから誰か手伝ってくれる人いないか?って言うのよ。金也くんなら音楽詳しいしレコードマニアだし海外もOKじゃん?」
「へぇ〜、面白そうですね。中古ってのが、またいいじゃないですか」
「やってみたいなら紹介するよ。かなりの偏屈オーナーだけど、笑」
「見た感じはただのマニアックなおっさんですけどね、笑。話きいてみようかな…」

「なら話は早い。向こうは金也くんに興味あるみたいで、もし興味あるなら即採用だってさ」
「ほんとですか!?じゃあ挑戦してみます。音楽の良さをダイレクトに伝えられてシーンをバックアップできる末端の仕事、何かないかなぁと思ってたんですよ。クラブだってそろそろ仙台に出来てくるだろうし、仕事で海外に行けるなんて最高じゃないですか!」

「お〜、相変わらず決断が早いね〜。得意の第六感ってやつ?」
「もちろんです。直感ですよ、直感!」


◆楽園レコード
金也はまず店舗で在庫を把握し、来店する顧客のニーズを探ることから始めた。
楽園レコードは仙台・一番町の南はずれにあり、流れの客ではなく何か目当てのものを探しに通う人がほとんどの店だった。偏屈オーナーは60年代のギターインスト(ベンチャーズなど)の大家で、北関東全域からマニアが集まって来る。

他にもフィル・スペクター関連のものやビーチ・ボーイズやビートルズなどのアナログ盤が、各国盤、オリジナル盤、再発盤と大量にあった。もちろんレアな60年代のブリティッシュビート系、アメリカンルーツ系やカントリー系の在庫も多数あり、暇な時間には音の違いを聴いてみたりレーベルの勉強をしたりデータを覚えたりに没頭する。

金也はもともとレコードのデータや逸話を覚えるのが好きだった。例えばビートルズのアルバム「Rubber Soul」は1965年12月3日にリリースされ、英盤と米盤では収録曲が違うとか、Let It BeとストーンズのBlack and Blueは同じエンジニアが音を作っているとか。
そういう雑学に加え、○×年のあのアルバムは○×がプロデューサー、ギターで○×が参加、オリジナルは○×レーベルでレコード番号は○×であるとか、ほとんどオタクのような研究ぶりで役に立たない知識を増やしていく。自分が関わるものを詳細に把握しておきたい性質なのだろう。

この熱心ぶりを学生時代に生かせていればなぁ〜などど、金也はまったく思いもしない。好きなことは好きだし、嫌いなことは所詮嫌いなのだ。それでいい。

当時の仙台では輸入モノのレコードはもちろん売られていたが、ほとんどアメリカへのメールオーダーで、頼んでも本当に届くのかどうか怪しいものもけっこうあった。直接買い付けで仙台の音楽事情も変わるのではないかと金也は予測していた。

市内のレコードショップ(新品、中古、輸入)を調査してみると、邦楽やジャズ系やロック系はそこそこ手に入る環境だったがソウル系やブラジル系やMODS系は少ないとわかり、今後クラブムーブメントが仙台にもやってくることを見越して、それらのレコードを集める必要があると感じた。同時に、再発アイテムも増えていたので積極的に新品も輸入したほうがいい。
もちろん金也自身のレコードコレクションも増やしたいと、唾を飲み込み目を輝かせていたのは言うまでもない。


◆L.A.
ロスアンゼルス空港は初めてだけど、やっぱりデカいな。まずは大きめのボックス型レンタカーを借りに。お〜、車もデカい。よっしゃ、2週間あちこちでいいレコードを買い漁るぞー。

アメリカには何のコネも土地勘もないから、まずは大きなスワップミート(蚤の市、フリマ)へ。これは古着屋の知り合いから仕入れた情報。山のような古着コーナーとは別に大量のレコードもあると聞いてたけど、こりゃ何とも言葉では言い表せないな。すげぇ!その一言だ。
テント1個分の各出店者がゆうに100ブース以上、どこまで行っても中古レコード。業者もいれば個人もいるけど、好きなものに囲まれるってのはホント至福だ〜。

でもゆっくり選んでる暇はないな。2週間で3000枚が目標だから、ここで1000枚は買いたいぞ。なかなか難儀だ。ジャケットと中の盤質もきちんとチェックしなくちゃ。なんせ日本は綺麗好きだし、中身が違ってるってのはよくある話だし。内容がわからないものはプロデューサーや参加ミュージシャンやレーベルをみて勘で買おう。
面倒なのは会計だ。良心的に1枚ずつ値段が貼られているブースは5%くらいか。あとは交渉次第。日本人の金持ち買い付けマンと思われぼったくられないように用心、用心と。

ふぅ〜、なんとかいいの沢山買えたなぁ。明日からの情報もゲットできたし。現地の人に訊いて回るのが一番効率的だよな、たぶん。さてサンタモニカ経由でホテルに戻るか。今日のレコード、仕分けして段ボールに詰めなくちゃ。

毎日毎日レコード屋にリサイクルショップに個人収集家のガレージ、観光などしてる暇ないね。こっちのレコードショップにはCDとアナログ盤とカセットテープまであるんだなぁ。仲良くなった店員に聞いたら、カセットプレイヤーしか持ってない人も沢山いるからってさ。音楽聞くのに貧富の差が出るなんて考えたことなかったけど、いいよな、そういう考え方。ちょっと郊外に行けばレア盤も普通の値段で売ってるし、アメリカの底力を感じるね。

あとはFM局のチャンネルがすごい多くて、SOUL専門とかJAZZ専門とかってたまらなくいいね。勉強にもなるし好きなジャンルの音楽を一日中聞き続けられるなんて、最高じゃん。日本もこんな風にならないかなぁ〜。


◆DJ
東京から少し遅れて、ここ仙台にもクラブムーブメントなるものがやってきた。市内にはいくつかCLUBも出来始め、同時にカフェブームとともにフリーソウルなるものも流行の兆しをみせていた。
そんなタイミングの良さもあり、金也がアメリカ(L.A.)から仕入れてきたレコードは飛ぶように売れた。ほぼ全てのレコードを聴き一言コメントを書いたのも功を奏したのかもしれない。
DJをやる者はもちろん、カフェのオーナーやトレンドに敏感なリスナーらが新しい顧客となった。まだCD化されていない音源も多かったし、敢えてアナログ盤をという人も多かった。

のちにデビューする在仙の音楽フリークも通ってきてくれた。FreeTempoやGAGLEや夜光虫の面々。山上達郎氏が次の買い付けで○×探してきてくれと電話くれたり、マーサーや二宅伸治氏もマニアックなレコードを探しに来てくれた。大西康陽氏に至っては金也がロンドンでゲットし店に貼っていたThe WHOのビッグポスター(私物)をどうしても欲しいと言い張り、根負けした金也から奪い去っていくなんてこともあった。

バンドを解散した金也はDJとして仙台の音楽シーンに復帰した。もともとクラブという呼び名がない頃から友人の飲み屋でのパーティーなどでレコードをプレイしてきた。はじめは趣味的なものだったが、DJの後輩が「そんなにレコードも持ってて音楽知ってるならやったほういいっすよ!」と金也をそそのかしたのがきっかけだ。

オープン前から相談にのっていたライヴハウスMCNのオープン当初は、まだライヴで埋まらない平日スケジュールをDJ仲間達と週3〜4回カバーしていたこともある。そして週末には幾つかのクラブに通う日々が続く。

金也のDJスタイルだが、良くも悪くもジャンルを感じさせなかった。60’s MODSから80’s Neo MODS、UK Rock〜PUNK〜New Wave、American BluesやSoulやJazzから70’s邦楽までを往き来する。バンドで培ったテンポやキーやライヴ感を重視したDJスタイルは、フロアで踊っているキッズ&ガールズよりも、むしろ店員やDJに好まれていたようだ。ロンドンで修行したことで多少は磨かれたのかもしれないが、まぁそんな感じだった。


◆ギャップ
3年が経ち楽園レコードは定期的な海外買い付けが起爆剤となって東北に6店舗を持つようになり、商売的には順調に見えた。しかしオーナーと金也の方向性の違いは日に日に増していくことになる。
店舗の拡大路線を押し進めるオーナーに反して、金也は逆の想いを抱くようになっていく。

手を拡げれば拡げるほどレコードファン1人1人にきめ細かいサービスが難しくなってきているのを肌で感じていたからだ。サービスとは言ってもとりとめのない音楽の話や、お勧めのレコードを心行くまで試聴してもらったりするだけなのだが、それが良かったのだと金也は考えていたし、お客から仕入れる情報にはとても価値があったのも事実である。

そしてもうひとつ。DJ流行りやフリーソウルの影響もあり、多くの人がアルバムではなくその中の1曲を求める傾向が強くなっていた。金也自身も知らず知らずのうちに躍起になって、隠れた名曲みたいなものやレアなものを追うようになる。それにハタと気づいた時、自分が志していた音楽のベクトルや好きなミュージシャンへのリスペクトを蔑ろにしているのではないかと、自責の念にかられたのだ。

もともと自分はアルバム指向だったではないか。曲のバラ売りは、あくまでアルバムへと導くための手段だというのを忘れちまったのか!?こんな売り方じゃ、その音楽は一過性のものとして消耗され忘れ去られるだけだ。一度初心に返るべきだ!と金也は悟った。


◆名盤
例えば全8曲入りアルバム(アナログ盤)の場合。

A-1.アルバムの色彩(コンセプト)を決定づける印象的な曲。
A-2.流れをさえぎらず次にうまくつながる何気なさを持ってるやつ。
A-3.バンドの幅を感じさせる意外性のある曲。
A-4.一度落ち着かせるために聴かせるバラードとかね。

針を上げ、盤を裏返し、また針を落とす。

B-1.アルバムの裏テーマになりうる渋めの曲。
B-2.ちょっと変化球的なものや変わり種だったり。
B-3.ラス前にしっとりとバラードなどいかが?
B-4.ストレートでバンドカラーが濃い曲。

曲そのものの善し悪しもあるが、それ以上にストーリーを感じられるものが名盤と呼ばれる。
ちなみに金也はA-2やB-1に配されるナンバーに好きなものが多かった。


車のフロントガラスに厚い霜が張り付くような凍てつく寒さのある冬の日、意見の食い違いからオーナーと大喧嘩になった金也は、次なるステップへのストーリー性を無視してカットアウトを宣言する。
それは例えば、つまらないアルバムに飽き飽きし、B-2で耐えられなくなり途中で針を上げるような、そんな感じにも似ていた。

人生は「名盤」のようには、なかなかいかないもんだなぁ〜。
外に出て冷たい天を仰ぐ。濃いめの鉛色の空から、はらはらと小さくて軽そうな雪が落ちてくる。目を瞑る。頬に当たってすぐに溶ける感覚を確かめながら、雪は雨よりちょっとだけ感触が優しいかもなと金也は思う。



続く・・・
by higehiro415 | 2011-04-16 00:39 | 物語