Imagine
2011年 11月 30日
カメラなどちゃんとやったこともないし趣味でもないのだが、かっこいい写真とかを見るのは大好きだし、携帯で撮る写メは一応アングルなど気を遣ったりはする。
しかし絞りやシャッタースピードなど露出調整のしくみは、子供の頃に学研か何かの付録に付いてきた手作りカメラのうる覚えでしかなく、ほとんど理解はしていない。
それでもこの風格ある一眼レフカメラ(キャメラって言いたくなるね)で、いろいろ撮ってみようと思っているのである。
なんせルックスがいい。
車にせよギターにせよどうして昔のフォルムってかっこいいのだろうか。というか単に自分の好みがそうなのかもしれないが。
何たって僕は自他共に認める「形から入る男」なのだ。機能や便利さは二の次、まずはルックスにこだわってしまう。(あっ、女性に関しては別ですよ、念のため。笑)
こだわった挙げ句あとになって不便が生じたりは日常茶飯事である。それでも気に入ってるものは可愛いと思えるから不思議だ。これ、あばたもえくぼ、ってやつ?
そのカメラを眺めていて、ふと思ったことがある。
フィルムってことは現像してみないとどんな風に撮れているかわからないってことだよなぁ…と。
物理的に当たり前のことなのだが、これって最近は味わったことのない感覚ではないか。
練習を重ね知識と経験が加味されればある程度の予測は出来るだろうが、実際の仕上がりは想像するしかないのである。
ここ数年はいろいろなことが便利になりすぎて、確認こそすれ想像するってことを忘れていたのではないのか?と気付いた。
想像するって、人間が生きていくためにとても大切なことであるはず。
人間関係や恋愛に当てはめても、思いやりって言葉はあるが、結局は他人の心の中までは理解できないから想像力でもって埋めてやるということではないか。
そう考えると、優しい人とか包容力がある人っていうのは想像力がある人ってこと。KYとか実は大した問題ではなく、想像力が欠如した人こそ他人の心を無下に傷付けたりするのだろう。
仕事に当てはめても同じようなことが言える。
僕の場合でいえば、単に音楽を知っているとか楽器が弾けるとか機材を扱えるとか、それは必要最低限のことであって、重要なのはその先を想像して音や音楽を作れるかってことである。
そうでなければ何かと同じものになってしまうだろうし、全部とは言わないが60~70年代の音楽に素晴らしいものが多いのは想像力の違いではないかとさえ思えてくる。だって量も技術も機械も今のほうが進歩しているのだから。
他のどんな仕事だって料理だって同じだ。
ファッションもそうだろう。想像力はオリジナリティーを生む。
「センス」という言葉は僕も好きでよく使うが、よく考えてみると想像力を駆使するからこそセンスだって磨かれるのだろう。
きっと僕のルックス重視というのも、自分なりの美的感覚以外にも想像力を刺激されることを無意識に好んでいるのだと思う。
さっきカメラを眺めて感じた違和感は、想像することを怠っていた自分の心の中の警鐘だったのだ。
ベトナム戦争まっただ中、戦争反対!という言葉ではなく「みんなが世界を分かち合うことを想像してみなよ」と歌ったジョン・レノンは、夢想家などではなく、想像力に満ちたタフなメッセンジャーだったってことなのである。
そんな訳で、想像しない日常に慣れてしまわないよう、肝に命じる今夜なのです。
明日は気の向くままにシャッターをきってみようかな。そうしよう。