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佐藤ヒロユキ。仙台在住のMOD音楽職人(サウンドエンジニア&プロデュース/レーベルなどやってます)アナログレコード好き1963年生まれ。GROOVE COUNCIL代表。http://groovecouncil.jimdo.com/


by higemodern
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奴と、俺と。

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この1枚のシングルレコード。30年近く前に東京から仙台へと戻ってきたばかりの僕がレコーディングエンジニアを担当した、THE LOOSE STREETという仙台のアマチュアバンドの自主制作盤だ。

そのバンドのギタリストは若いくせに(といっても僕のひとつ下で、要するに自分も若かったのだが。笑)まるでCharのような上手さでグルーヴィンに渋いプレイを聞かせてくれ、大いに興奮したのを覚えている。確かその当時の彼は肉屋の配達のアルバイトをしていたと記憶しているが、それが小林英樹との出会いだった。


その後彼は日本コロムビアレコード仙台営業所で働きはじめ、同じ時期に僕はフライングハウスという会社へ移るのだが、それから6年間ほどコバちゃん(小林くん)が担当する多くのバンドやアーティスト(レッド・ウォーリアーズやニューロティカ、そしてザ・コレクターズ等々)と共に東北ツアーを回ったり、R&Rオリンピックというイベントにブッキングさせてもらったりと、本当に密な付き合いをさせてもらった。僕らが若かったせいもあるがバンドバブル期とも重なり、はちゃめちゃで豪快な日々(特に打ち上げ。笑)をかなりの頻度で一緒に過ごしたのである。


30代になり彼は東京本社へ移動、僕は音楽業界の現場に疲労し一時海外から中古レコードを買い付けたりしていたが、ほどなく小さな制作会社に籍を置きラジオ番組制作の仕事も始めた。コバちゃんは誰もが一目置くコロムビアの名物宣伝マンとして活躍していて、今度はプロモーターとディレクターという形で付き合うこととなる。

古臭い表現ではあるが同じ釜の飯を食った者同士の信頼関係というか、困った時はお互い無理難題を強引に頼み込むことも多々あったが、それによって実現した素敵なことも多かったように思う。


30代後半、国分町の飲み屋で、独立するためコロムビアを辞めると聞いた。坂本サトルと会社を作るのだと。サトルは先述のシングルレコードを録ったスタジオで(もちろん時期は少し後だが)学生時代アルバイトをしていた。これも縁なのかねぇと二人で焼酎をけっこう呑んだっけ。


そしてまた僕らは新たな形で関わっていくことになる。ラジオ局では本職が音響エンジニアだったことをあまり公にしていなかった僕だが、ラップランドという会社を立ち上げ動き出したコバちゃんとサトルは、元々の僕の姿を知っていたこともあり、ある日突然こう言ってきた。

「ヒロさん、そろそろエンジニアの腕が疼いてるでしょ!?どうみたって本来のヒロさんはライヴ現場の人だよ。一緒にツアー回ろうよ!」


この頃の僕は時折昔からの付き合いでPAやレコーディングをしていたものの、年齢的なことや経済的展望も含めて今後はディレクター業で食っていくべきではないか?と悩んでいた時期でもあった。そのためライヴやレコーディングで音楽(音)に没頭している時の抗えないカタルシスの大きさを、何とか誤魔化して押し潰して日々を過ごしていた。

しかし気のおけない旧知の仲というのがこの壁をぶち抜いた。これは奴らに頼まれたことなんだから断るわけにはいかないと自分を納得させ、もちろん心の奥底ではまた現場に戻れるのだと心躍らせながら、音楽の渦へと再度飛び込んだのである。


これはとてつもなく大きなきっかけだった。人生にたらればが通用しないのは承知の上で、あれがなければ今の自分はなかっただろうと思う。要するにかけがえのない恩人なのだ。それはお互いの事情で多少疎遠になった時期があったとしても、変わりようのない事実である。


10年前にコバちゃんが仙台へ戻ってきてからは、より多くの現場を一緒にやらせてもらった。企業のパーティーやらプロモーションライヴやらイベントやら、本当に数多く。5年前に昭和歌謡酒場プレイバックをオープンさせるとなったときは、オーディオをどうしようかとか配線の仕方とか、そこから広がるおっさんの夢みたいなことをよく八乙女のガストで延々と話したりもした。打ち上げの二次会でバンドの連中を入れないほど連れて行き、店主も含め()全員でぐでんぐでんになったりと思い出は尽きない。

僕がプロデュースしたCD(幹mikiThe黄昏カラアズなど)も何枚かラップランドからリリースしてもらったなぁ。


昨年だろうか、癌がみつかったと聞いたのは。それでも店に顔を出したり電話で話すと「いや〜仕方ないっすね。ま、大丈夫でしょ。」といつものように笑い飛ばしていたし、僕も長年の付き合いから奴はそう簡単には病気に負けないと信じていた。

シルバーウイーク前にFacebookで再入院したと知る。その少し前にアップされていた写真があまりに痩せていたので、もしかして、いやまさかな、と不安に感じていたのは事実だ。それでもまた数日後に「無事退院しました!」と連絡があると思った。


一昨日、昨日と友人から具合が芳しくないらしいと連絡があったので、昨日のライヴ現場を終えた夕方前に急いで病院へと向かう。彼の親友の一人であるH君もやってきて、僕らは2時間ほど病室にいただろうか。東京から向かっていたサトルも無事に到着。痛み止めのモルヒネのせいもあるのか意識は朦朧としているものの、僕らの声に反応し少しだが会話ができた。

18時頃「明日また来るから!」と言い残し、僕らは病院をあとにした。

しかしその6時間後、さっき永眠したと連絡があった。無念すぎる。


今はまだ気持ちの整理がつかず、なんて言ったらいいのかわからない。

結果的に最期に会うことができてよかったとも思うが、昨日行かなければ今日も待ってくれていたのではないかと思ったり。まだ51歳、人はいずれ死ぬのだとわかっていても早すぎやしないか?

何より残されたご家族のことを思うと、なんともやりきれない。


昨日の今日でこんな文章を書いていること自体、おかしいのかもしれない。

それでもコバちゃんの冥福を祈りながら、これを書かずには正気を保てないので勘弁して欲しい。これは彼への昨日話せなかった思い出話だ。


知り合って30年、もちろん少し距離があった時やお互いの信念の違いで言い合った時もある。しかしどんな時も彼は真っ直ぐストレート勝負で接してくれた。気まずくなった後は、でもこういうのをくされ縁って言うんだよな、と笑って仲直りした。

そういう縁を大切にした男だからこそ、数多くの人と人との縁を取り持ってきたのだろう。


それにしてもあのバイタリティーはすごかった。そして独特のやんちゃな()キャラクターで多くの人に愛された男だった。あんなやつはそうそういない。

惜しむらくは昨日「ありがとう!」と伝えられなかったことだ。あの誘いのお陰で、いまハッピーだよと。

そのうち言おうとか、そのうち会いに行こうでは遅いのだ。


コバちゃん、おつかれさま。とにかくゆっくり休めよ。

コバちゃんの代わりにやることもあるし、俺はもうちょい元気に頑張って、そのうちそっちに行くからさ。

いつもの珈琲焼酎、いい塩梅に漬けておいてね。


合掌。





by higehiro415 | 2015-09-28 15:38 | 日記